コーヒーとは「余韻の美しさ」

コーヒーの話をしたい。ぼくはコーヒーが大好きだ。好きすぎて話し出すと人に引かれちゃうから、溢れる思いはブログに綴るぐらいがちょうどよい。挽かれるのは豆だけ、溢れるのは香りだけにしてほしいところ()

 

さて、今日は久しぶりに感動する豆に出会った。

そして再認識した。コーヒーとは余韻の美しさで決まると。

 

 

これ

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もともとタリーズでバイトさせてもらってたこともあってか、私はタリーズを溺愛している。その辺の話はまたの機会にに譲るとして、とにもかくにも美味かった。

 

最初の飲み口はやさしいチョコレートのような香りが訪れて、少しくゆらせていると明るくクリーンなさっぱりした印象に変化する。一口終えると花のようなフローラルで美しい余韻に包まれる。

 

そしてなんとも表現しがたい心地よく、長い余韻に浸る。鼻から抜けるフローラルな香りが私を酔わせる。私はタバコを吸わないので、推測になるが、おそらくタバコの醍醐味というのはこの感覚と同じなのだろう

 

タバコを吸っている人の様子を見ていると、煙を吸い込む時はあまりいい顔をしていないことに気が付く。ふーーーっとゆっくり煙を吐いて、その次の呼吸をしているときに幸せの絶頂みたいな顔をしてるように思う。アンチタバコな私にとってはイライラの絶頂

 

つまり、タバコもコーヒーも実は口に含んでいる瞬間よりも、その余韻を楽しんでいる瞬間の方が幸せが大きかったりする。それを余韻の美学と呼んでもいいのではないか。

 

700年前にもそんなことを徒然と書いた人がいた。花が美しく咲いているときだけを見つめるなんて愚か者のすることであって、つぼみから(始め)開花して(盛り)枯れゆくさま(終わり)までを見届けてこそ、本当の美しさが分かるものなんだよと世に問うてみせた

 

コーヒー好きにとってもはやり同じなのである。勝負は豆を挽くところから始まっている。「豆を挽く(始め)カップに注ぐ(盛り)飲み終わった後の余韻(終わり)」

 

ものの盛りは、始め終わりの美に包まれてこそなりという、3形態を総合した美しさがあって初めて、おいしいコーヒーは成立する